「澪(みお)、話があるんだけど、明日の夜、時間を作ってくれるかな?」

 付き合い始めて5年になる彼氏の秀二(しゅうじ)が、滅多にしない深刻な表情でそう言うので、別れ話か、と思い、私は答えを出すのに少し戸惑った。
 ……戸惑う、と言うのにはもしかしたら語弊があるかもしれないので、念のために訂正しておくが、別に私は彼を束縛したいわけではない。ただ、昔から変わらぬ笑顔で私と接してくれていた彼が、5年も私の隣に居た彼が、そんな簡単にあっけなく、私の前から姿を消してしまうのか、と思うと、戸惑わずにいられなかった。たとえ、束縛をするつもりはないとしても。

 しかし、考えてみればここ最近、お互いの仕事の関係上、上手く予定が合わず、会う時間も本当に少なかったから、「別れよう」と言われても仕方が無いのだろう。

 それに、私たちは、もう若いとは言えない歳になってきている。もしかしたら、彼はそれを気にしているのかもしれない。
 ただ漠然と「付き合っている」自分たちの関係に、嫌気がさしたのかもしれない。

 私の脳内は考えるにつれて、だんだん『別れる』というワードが占めてきて、内心本当に焦っていたが、私はなるべくポーカーフェイスを装って、秀二に言った。

「ええ、良いわよ。いつものレストランで良いの?」
「いや、今度は別の場所……」

 最後の方はもごもごと言って、何を言われているか分からなかった。だから、はっきり言って、と言う代わりに、腕をポン、と叩くと、ぼんやりと私の背後を見つめていた彼がはっとして、もう一度
「別の場所を予約するつもりだから、明日の夜、迎えに行くよ」
と言った。

 明日の約束を私と取り付けた後、彼はまたいつもの笑顔に戻って、帰っていった。そんな彼の後姿を見ながら、考える。

 本当に慎重なのね、秀二。

 きっと彼の頭の中では今、どうやって別れを切り出せば、私を傷つけずに、「元高校のクラスメート」に戻れるかどうか、考えているのだろう。本当に彼は優しいから。
 私はそんな彼を引き止めるつもりもないし、責めるつもりはないのに。

「……そんな所があるから、秀二が好きなんだ、私」


 そう気づいたとしても、もう遅いのだ、と思うと、別れを切り出された女が彼を引き止める時の気持ちが、少しだけ分かった。



**



「本当に、急にこんな所で食事しようなんて……ごめんね」
「ううん。いいの。私、こういう雰囲気好きよ」
「そうか。良かった」

 彼が予約していたのは、私好みのアンティークな雰囲気のレストランだった。
 この店自慢のコースを食べながら、私はなるべくいつも通りを振舞っていた。内心はいつ別れ話を切り出されるか、とひやひやしながら。

 秀二は、中々本題に入らなかった。本当に他愛のない話……それこそ、いつも行っているレストランで話すような、本当にいつもの話。
 彼も彼で、必死にいつも通りを振舞っていたつもりだろうが、私は少しだけ気づいていた。


 話している間、ずっと、彼の左手が、ピクッピクッと動いていた事を。


「……という訳なんだ、酷くないかい? 僕の部長」
「アハハ、しょうがないじゃない。きっと、部長さんも必死だったのよ」
「良い人だとは思うんだけどね」
「きっとそうよ」
「……」
「……」

 沈黙が、出来たのは、コースのメインディッシュを食べ終わった頃だった。

 私達の食器を片付けたウエイトレスが、最後のデザートを運んでくる。私はその沈黙が耐えられなくて、ずっとそのウエイトレスを見つめていた。

「お客様、何かございましたか?」
「えっ? あ、いえ、何でもないです、すみません」

 目が合ったウエイトレスが、愛想の良い笑みで笑って、言ったので、私は少し驚きつつも、正直に謝った。すると彼は詮索するような仕草も見せずに、少し会釈して、去っていった。

「澪」
「え、あ……何?」

 急に、昨日の、あの誘いの時のような声で、秀二が私の名を呼ぶ。

「澪、今日は何か変だな」
「……私が? 私より、変なのは秀二よ。さっきから、左手で机をとんとんと……」
「え……」

 秀二の左手が、私の言葉を聞いて、ピクッと動いて止まった。無意識だったようだ。
 ね、秀二の方が変でしょう、と言うと、澪だって、と反論された。

「澪だって……さっきからぼんやりと遠くを見てる」
「そ、そんな事」
「何か、話があるの?」
「話があるのはそっちでしょう。わざわざ、こんな所に呼び出して」

 少しだけ、声を荒げてしまった。そんな私の言葉に、少し驚いて、顔を真っ赤にさせた。
 ……何故、真っ赤になるんだろう。

「……あ、あのさ、澪……」
「何?」
「こ、コレ……」

 さっきまでの穏やかな顔はどこへ行ったのか、彼は一転して顔は真っ赤でこわばり、しどろもどろで話している。
 そんな風にオロオロしながら震える手で渡されたのは、ドラマとかでよく見る、あの小さくて高価そうな箱だった。
 中には、小さいながらもレストランの証明に照らされてキラキラと輝いている、ダイヤの指輪。

「……これ」
「あ、あのさ、澪……こんな僕でよかったら、その……結婚、して欲しいんだ」

 初めてのキスの時よりも真っ赤になって、秀二は私のほうを見つめた。
 あなたがそんな顔したら、私だって赤くなっちゃうじゃない。

「澪、受け取って欲しい……駄目、かな、こんな弱弱しい僕じゃ」

 彼は知らないんだ。私がどれだけ、愛しているのかという事。
 私は、彼なしでは生きていけないということも。
 私自身、あの時に知ったのだから、しょうがないけれど。


 返事なんて、あの、誘いが来た時から決まっていた。



#50 はい